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2020年8月17日月曜日

神様/五十嵐彪太

 焙煎する前に準備をしながら「きみたちはイタリアンローストにするよ」と声を掛けてから始める。すると「我々は真っ黒になってしまうのだな」「悪くはないな」「いや、シティーローストがよかった」などと声が聞こえてくる。
 それから、ブラジルだとかコロンビアだとか、故郷の思い出話が始まるのがお決まりだ。
 珈琲が饒舌なのは、「生豆」の段階だ。焙煎が終わる頃にはすっかりおとなしくなる。炒り終えたコーヒー豆が喋っていたら、喫茶店は、五月蠅くて仕方がないだろう。
 だが、かつて一度だけ、いや、一粒だけ、焙煎が終わってもしゃべり続ける豆がいた。「皆、黙ってしまったが、どうしたことか」「焦げたからだろうか」「ここはどこか」
 その一粒は、自宅へ持って帰って瓶に入れて、なんとなく思い立って神棚に置いた。
 朝、出掛けに神棚を拝むと、時々ぼやきが聞こえる。「すっかり焦げてしまった」と。そんな日は、焙煎がうまくいくのだ。

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珈琲の超短編 井上雅彦賞(大賞)受賞

Hello, world/立花腑楽

 少量の湯に蒸され、豆の粒がじわりと開く。少し、淫らに感じる。
「美味しい珈琲を淹れられるようになりな。魔術はそこから始まるのさ」
 師匠の言葉を思い出す。師匠は天現寺あたりを寝ぐらにする魔女だった。
 そんなことを言う割りには、彼女の珈琲は旨くなかった。
 狸を溶かし込むのが天現寺流だというが、あのぼやっと野暮ったい風味には閉口したものだ。
 あれから幾星霜。
 いっぱしの魔術師になった私は、魔術の技量はともかく、珈琲の淹れ方では師匠を凌駕した自負がある。
 狸みたいに野暮じゃない。黒豹を触媒とするのが、私のオリジナルだ。
 ビロードみたいに錬られた黒豹珈琲には、何より速度がある。
 一口含めば、その薫香は瞬く間に鼻腔を駆け抜け、眉額を突き破って世界に飛び出していく。
 風通しがよくなった脳髄では、
「Hello, world」
 この世界を寿ぐ呪文が紡がれる。


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珈琲の超短編 タカスギシンタロ賞受賞