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2020年2月13日木曜日

キッチンに鯨/五十嵐彪太

 小さ過ぎる鯨がシンクにいる。
 鯨の傍らには、旅行鞄がある。旅行中なのか?
「小さいとお思いでしょうけれど」
 喋った。鞄の中を開けてみろという。中には、セピア色の写真があった。大ジャンプをする迫力満点のクジラの写真。ホエールウォッチングする船から撮ったものだろうか。
「母です」
 小さくとも鯨であることを言いたいらしいが、古い写真のほうが気になってしまう。
「これは、いつ頃の写真?」
「人間の時間の数え方を知りませんで」
 調べると、この鯨はシロナガスクジラだった。寿命が結構長い。写真は70年くらい前のものだとわかった。
「お母さんは今も元気なの?」
「独り立ちしてから会っていません。声は聴いたことがあります。返事はしましたが、何しろ私の声は小さいので」
 しばらく鯨はシンクに滞在した。洗い物をする時は洗面器に移動してもらった。
 色々と事情がありそうな鯨に、あれこれ聞くのも悪い気がしたので、母鯨の写真の入手については敢えて聞かず、旅行鞄のことだけ訊いてみた。人形作りをしているお爺さんが作ってくれたそうだ。その話はカレーを作りながら聞いた。
 別れの前に、鯨と写真を撮った。フイルムカメラなんて久しぶりだ。キッチンを背景に、小さな鯨と笑顔の自分。現像して鯨に渡した。
「色付きの写真、嬉しいです」
 二枚に増えた写真入り鞄とともに、鯨は蛇口に吸い込まれていった。

キッチンに鯨/立花腑楽

 流しの蛇口からどろどろした黒い液体が垂れてきて、それはあれよあれよという間に凝り、いつしか鯨の形と成った。
  一応は生きているらしく、キッチンの宙空をぐるぐると遊泳している。
  邪魔にもならなさそうなので放っておいたが、数日後の早朝には、あっけなく死んで、キッチンの床にひっくり返っていた。
  生きて宙を泳いでいる分には、特に障りも無かったが、死んだとなると始末に困る。放っておけば、腐って臭いも出てくるだろう。
  そうは思っていても、元来の無精ゆえ、ぐずぐずと見て見ぬふりをしているうちに、鯨の骸はすっかり骨だけになってしまった。
  どこからやって来たのか、何だか白っぽい蟹やら、目のない鱶やら、海羊歯みたいのやらがわさわさと鯨骨に集っている。
  なるほど、これが鯨骨生物群集というやつかと思った。
  よく見れば、どいつもこいつも健気で愛嬌がある。鯨にはてんで感じなかった愛着のようなものが湧いてきた。
  キッチンの灯りを消して、鯨骨を枕に横になる。まるで深海にいるみたいなゆったりとした気分になる。
  この死に方は悪くないなと思い、少しこの鯨が羨ましくなった。