2019年5月29日水曜日

湖畔の漂着物/五十嵐彪太

 涼しい顔をして湖を眺める人がいた。団扇を動かしてはいるものの、煽いでいるとは言い難い。ゆらゆらとたいした仕事をさせてもらえない団扇は、退屈そうに見える。
 じっと見ていたのに気がついたのか、視線が合ってしまった。不躾を詫びる前に、彼女から話しかけてきた。
「この湖は初めてですか?」
「ええ、とてもよい風景ですね。お近くにお住まいですか?」
 彼女はそれに直接は答えなかったが、ゆるく着た浴衣姿は電車やバスに乗ってきた風情には見えなかった。
「毎日、何かが流れ着くのです。私は、それを拾わなくてはいけません」
「何か?」
「長靴の時もあるし、釣り竿の時もあります。コンピューターも拾いましたし……亡骸を拾わなくてはならないこともありました」
『亡骸』と言う時、団扇を扇ぐ強さが変わった。
「いつ流れ着くかわからないので、こうして一日湖畔を眺めていなければいけません」
 すると、湖の波がじわじわと大きくなってきた。
「あ、もうすぐです」
 浴衣とは思えない機敏さで水際に駆け寄る。
「今日は、ロボットの腕ね。昨日は脚でした。大きいので、手伝ってくださる?」
『ロボットの腕』はどう見ても5mはある。昨日の脚はどうやって運んだのだろう。

湖畔の漂着物/立花腑楽

 その光景を見た瞬間、なぜか口中がラムネ味で満たされた。
 眼下に広がるのは、岸辺に打ち上げられたクラゲの群れだ。半透明の薄青いゼリー質が、午後の陽に晒されてきらきら輝いている。
 よくある夏の風景だと割り切りたいが、ここは人工のダム湖だ。しかも、その湖底にはかつて祖母が暮らしていた村が沈んでいる。
 淡水の湖にもクラゲは湧くものだろうか。
「家の近くの川では、よっくクラゲが採れてねぇ」
 そんな思い出話を祖母は語ってくれてただろうか。彼女のくしゃっとした笑顔を思い出すと、いかにもしっくりきて、懐かしさに胸がきゅっとなった。
 そのとき、不意に豪雷が響く。いつの間にか、雨雲が頭上を灰色に染め上げていた。雨の気配で肌もぴりぴりする。
 ああ、クラゲとは雨を呼ぶモノだった。祖母はそんなことも言っていた。幼い私は、茶碗に注いだラムネを啜りながら、それを確かに聞いていたのだった。
 淡水のクラゲ。湖底の村。祖母の思い出。茶碗に注がれたラムネ。夏の雷雨。
 少し消化不良気味になった私は、ひとまず待つことにした。
 クラゲとともに。ラムネ味の雨が降るのを。

2019年5月22日水曜日

風邪ひきリンゴ/五十嵐彪太

 小さい頃、風邪をひくと、すりおろしたリンゴをよく食べた。怠くて食欲のない時でも、すりおろしリンゴはおいしかった。
 子供の頃のことを思い出しながら、リンゴをおろしている。風邪をひいたリンゴのリクエストだ。リンゴはくしゃみして、ブルブルと震えている。
「風邪をひいたら……卵酒がいいんじゃない?」
 と、やんわり共食いを阻止しようとしたのだが「すりおろしリンゴが食べたい」と譲らない。
 リンゴをすりおろしながら、これはリンゴにとっての輸血みたいなものだ、共食いではないんだと、思い込もうとしてみるが、輸血と思うと風邪なんかではなくもっと重病な気がしてきて、どんどん不安になってしまう。
 涙入りすりおろしリンゴは、風邪ひきリンゴに効くだろうか。

風邪ひきリンゴ/立花腑楽

 いつもの甘酸っぱさの奥に、ほんのり饐えた風味が隠れているのに気がついた。
「少し風邪っぽいの。感染っちゃうかも」
 ぼくの表情の変化を察したらしく、言い訳めいたような、申し訳ないような口調でそう言った。
「いいよ、いまさらそんなこと」
 敢えてぶっきらぼうに、再び彼女にさっくりと歯を立てる。
 果肉を齧り取る刹那、ぶるると罪悪感に身を震わせたのは僕か、それとも彼女か。
「あっ」
 彼女に残したぼくの歯型に血が滲んでいる。歯茎から出血したのだ。ぼくもぼくなりに病んでいる。
「脆弱だね」
「お互いにね」
 寂しく笑いあって、今宵最後とばかりにもうひと齧りする。
 饐えた甘酸っぱさに、ちょっぴりしょっぱさが加わったのは、ぼくの血の味かもしれないし、彼女の涙の味かもしれない。

2019年5月16日木曜日

蚯蚓出来ない/五十嵐彪太(テーマ:蚯蚓出)

 ミミズは、蚯蚓という字を教えてもらって甚く気に入った。それをミミズ文字で表したいと願った。
「ミミズ」は、多くのミミズがすぐに覚えた。ミミズは名前を表示できたことに満足した。
 だが、「蚯蚓」は勝手が違う。まず、匹数が要る。あまりミミズ付き合いが得意でないミミズだ。多数のミミズが協力するのは難しかった。
 そもそも、何匹必要なのか、数えるのも難しかった。ミミズは11までは辛うじて数えられたので「ミミズ」ができたのだ。11以上はよくわからない。「蚯蚓」を教えてくれた人間に聞きに行くが、帰ってくる頃には忘れた。
 立夏。今年もミミズは蚯蚓が出来ない。

邂逅/立花腑楽(テーマ:蚯蚓出)

 ミミズには目もない。手もない。もちろん喋れない。
 まっ暗な土中を掘り進んでいて、奇跡のように同胞と巡り会えたときなどは、まずはこっつん、キッスでご挨拶する。

2019年5月11日土曜日

落下菌/五十嵐彪太

 菌は焦っていた。菌に焦るという感情や思考があるのかどうかは置いておいて、焦るというしかない状況であった。
 仲間たちは、次々と落下傘を開いて、それぞれの培養に適した地を目指している。
 しかし、焦る落下菌は、なぜか落下傘が開かない。落下傘が壊れたのだろうか。そんなことがあるだろうか。落下傘を開いて降りるのは、この菌の元から備わった機構であり、能力であるはずだ。
 落下傘が開かないなら落下菌ではなく、墜落菌だ。
 運よく、シャーレに着地しそうだから、きちんと同定、並びに「墜落菌」と呼んでくれたまえ、そこの学者。

落下菌/立花腑楽

 雄弁な神様は言葉で以て神意をお示しなさるが、もちろん天上には寡黙な神様だっておわすわけで。
 ことにその偏屈さで名の知れた某神様などは、口を開くのが大層億劫なうえ、迷える子羊たちを端から馬鹿にしているらしく、よりにもよってカビを使って啓示を下される。
 彼に仕える預言者たちは、空から降ってくる啓示(という名のカビ菌)を受け止めるため、常に寒天培地を張ったシャーレを懐に忍ばせているのだそうだ。
 カビ菌がどうして神意伝達のツールとなり得るのか――それはこの宗派における秘事中の秘事というわけだが、他宗派の預言者などは「知りたくもないし、別にどうでもいいのだが、あれでよく間違いが起きないものだ」と訝しんでいる。
 実際に、この宗派内では教義論争や異端審問など滅多に発生しないし、信徒が神罰を被ったという話も聞かない。
 それどころか、神領も年々順調に拡大しているそうなので、かの偏屈な神様の大御心は意外と的確で、しかも粗漏なく信者たちには伝わっているということなのであろう。

2019年5月5日日曜日

二千年たったらあの教会で/五十嵐彪太

 二千年。随分と壮大な申し入れをしてしまった。
 二千年。その間、一日たりとも忘れたことはない。やはり長かった。待ち遠しくも、重荷にも感じた。
 ついに教会に行くべき日が、やってきた。
 二千年ぶりに訪れる教会は、その歳月を感じさせなかった。二千年前よりも美しくなっているとさえ思った。屋根は眩しいほどに輝いている。中へ入ると、床は磨かれ、本当に塵ひとつ落ちていない。非常に丁寧に、几帳面な管理が続いているのを感じた。彼らしいと思った。
「約束の日が来ました」
 思いがけず、声が震えた。
 彼は少し疲れて見えた。抱擁し、口づけると、微かに異音がした。教会そのものには感じなかった二千年の歳月だが、やはり長かったのだ。
 二人で塔へ上がった。彼を座らせる。指輪を出し、彼の手を取った。嵌めた指輪は、瞬時に彼の手に融合した。
 釣鐘を下ろす。彼を閉じ込めた鐘は、まもなく一回り大きくなった。鐘の音も半音、低くなった。
 教会の扉を開く音がする。二千年後、金属になって久しいこの指に指輪を付けると約束する人だろう。

二千年たったらあの教会で/立花腑楽

 その教会は、神の夢で構成されている。二千年に一度、寝返りの拍子にぽろっと顕現する微睡みのカテドラルだ。
「おひさしぶり。お元気そうで」
「おひさしぶり。そちらこそお変わりなく」
 東の悪魔と西の悪魔が再会する。二千年にわたる約定を果たすために。
「元気に育っているでしょうか」
「元気に育っていることでしょう。この二千年間、主はさぞ寝苦しかったに違いない」
 くつくつ笑い合いながら、教会の門をくぐる。
「にゃあん」「にゃあん」「にゃあん」
 聖堂内で彼らを迎えたのは、黒い天鵞絨に身を包んだ小悪魔の群れだった。
 二千年前に仕込んだ嫌がらせの種が、見事に結実しているのを目の当たりにして、二匹の悪魔は祝杯を上げる。

2019年5月2日木曜日

虚ろ川/五十嵐彪太

「粗末な棺桶のよう」だと思った。濃過ぎる霧のせいで、川面の境もよくわからない。
 そこを、ひとつ、またひとつ、泥と藁でできた舟が流れていく。
 川の水で崩れてしまわないのが不思議だった。
 泥の舟は、人が横になれそうな大きさがあった。いっその事、死体でも横たわっていたほうが、似合いの光景に思える。
 私はその泥舟を見送る仕事を任されたのだった。
 どこで誰に頼まれたのか、報酬はどれくらいでいつ貰えるのか、全く覚えていないから、本当に自分の仕事なのかどうか、怪しくなってくる。
 だが、今することと言ったら、この流れてくる泥舟を見るくらいしかないのも事実だ。湿った灰色の景色に暗い川。泥の舟。他に何もない。何も見えない。
 どれくらい時間が経ったのだろうか。流れていく泥舟を数えては止め、また一から数えては飽きを、もう何百と繰り返した気がする。
 次にやってくる舟に、乗ることにしよう。

虚ろ川/立花腑楽

 水が透明すぎて、かえって不気味な印象を受ける。生き物の気配が希薄なのも一因かもしれない。
「魚が、居ませんね」
 私の問いかけに応じて、船頭が振り向いた。のっぺりした革袋に、目鼻口の線をおざなりに引いたような顔をしている。
「そんなことはありません。そのあたりをようくご覧なさい」
 船頭の指し示す水面に目を凝らす。確かに、細い雑魚の一群がちらちらと泳いでいる。
「魚だけではありません。ほら、そこにも」
 今度は右手側、葦が茂っているあたりを指差す。いつの間に居たのか、鷺に似た鳥がぎゃわぎゃわと騒ぎ始める。
 葦に鷺など、どうにも構図が整いすぎていて、妙な気分だ。
「ほら、ここにも」
 舳先にぴょこんと蛙が飛び乗ってきた。六本脚で尻尾がある。
「ここいらの生物群はディテールが甘いようですね」
 私がそう皮肉を言うと、顔面の線を一層曖昧にしながら、船頭はぼそぼそと言い訳めいたことを口にした。