2021年3月21日日曜日

汚染揮毫/五十嵐彪太

  白い防護服姿で大きな筆を揮う。この特殊な墨汁は、酷い匂いがする。古くからの書家は使いたがらない。「墨」「墨汁」と呼ぶのも憚られる。書家の誇りが許さないのだ。私もできればやりたくはない。だが、近年の仕事はほとんどこの墨の指定である。
 墨汁がわずかに飛び散る。小さな黒い点がたちまち赤くなり、染みは奇妙に広がる。大作となれば、全身が赤く染まる。防護服は脱いだらすぐに焼却する。臭い。なにより気色が悪い。
 紙に書いた文字は黒いままだが、まもなく小さく身動ぐ。そして、規則正しく僅かな伸縮を始める。眠る猫の腹のようだと思う。その頃には依頼者に納品するから、文字たちのその後は見たことがない。見たくもない。

汚染揮毫/立花腑楽

 暗闇に分け入るように、田んぼの中の一本道を歩いている。
 星の無い夜にじわりと握られた懐が熱い。
 先生に揮毫いただいた短冊が熱を発しているのだ。
 内臓の炎症痛のように、どことなく悪意を孕んだ熱だ。
 ああ、だめだ。やっぱり先生も保菌者だったのだ。
 これは腐敗熱だ。「祝」の一文字が、「呪」に急行直下するときに発する摩擦熱だ。
 これはもう持って帰るわけにはいかない。うちの店の商品まで汚染してしまう。
 ここで燃やしてしまおう。
 燐寸の硫黄臭と、ささやかな浄火の灯り。
 汚染揮毫の短冊はあっという間に燃え尽きて、私はすっかり手ぶらになって、それでも懐に空虚な気持ち悪さだけを抱えながら、またひとり、闇夜の帰路に脚を踏み出す。