2019年7月27日土曜日

冬の前/五十嵐彪太(テーマ:雨宿り)

 突然の雨、駅から家のすぐそばまで雁木があるから大丈夫だ。と思ったが、今夜の雨は訳が違った。どうやら、地面と空と役目を入れ替えたらしい。雨は下から降ってくるのである。自分があべこべになったのではないかと辺りを見回したが、やはり雨は地面から降るのである。
 下からの雨を「降る」と言っていいものかどうかとか、重力はどうしたとか、いろいろと思うこともあるが、長く空をやっていれば飽きることもあろう。そういう雨なのだ、今夜は。
 もう遅いので歩く人もまばらだが、その少ない人間同士、顔を見合わす。すると、ひとりの人が、柱をするするとよじ登って、雁木の上を歩きだした。
 それを見て、ほかの人々も雁木の上を歩き始めた。なるほど、ここなら足元から降る雨に当たらない。
 雁木から眺める街は、静かすぎた。灯りも少ない。自分が暮らす街はこんなに小さく寂しかっただろうか。
 雨を降らす役目を地面に任せた空は、それでも暗く重たい雲だった。長い冬が差し迫っていることがわかる雲。今年もきっと大雪だ。足元の雁木が軋む。

コクーン/立花腑楽(テーマ:雨宿り)

 夕立に襲われたので、慌てて電話ボックスに避難した。
 扉を閉めてしまえば、滝のような雨音はもう聞こえない。雨曝しの小さな箱の中で、ぼくの心臓音だけが喚いている気がする。
 手と顔を拭う。それだけで小さなハンカチはびしょびしょで、雨に洗われる街の様子をガラス越しに眺めるより他、ぼくのすることは何もなくなった。
 輪郭の無い世界で、人々はせかせかと帰路を急いでいる。
 帰るところなどないぼくには、その滲んだ色彩たちがちらくら動く様が、何だか無性に辛かった。
 ポケットの中の小銭を公衆電話にありったけぶちこんで、でたらめにダイヤルする。
「ハロー。ご用件をどうぞ」
「雨が降ってても、この世界はやはり眩しすぎるみたいです」
「オーケー。でしたら、別のプランをご案内いたします」
 パチン。
 夢が醒める。私は相変わらず、蛹の中でドロドロしていた。
 蛹の中では、外の世界は覗けない。だけど、さぁさぁと雨音が聞こえてくる。
 音声と映像とが入れ替わった夢を見ていたのだなと、何となく検討はついた。
 羽化まであとどれくらい待てばいいのだろう。また少し眠くなってきたようだ。

2019年7月13日土曜日

夏に降る雪/五十嵐彪太

 天気予報士が「明日は大雪です。最高気温は35度、真夏日です。が、大雪です……大雪なのです」と、しどろもどろになりながら天気を予報している。
 僕はラジオを消して、どうやって雪遊びをしようか考える。
 かき氷のシロップが残っていることを確認して、物置から雪かきスコップを出してきた。それから、それから。
 そうだ。ダウンジャケットはいらないけれど、スノーブーツは出しておこう。それからソリも。
 もう一度物置に行こうとして、空を見上げた。よく晴れた夏の夜だ。星がたくさん見える。虫の声は紛れもなく夏だ。でも、この空から明日は雪が降るのだ。
 スッと背中を冷たい氷で撫でられたような気がしたけれど、気を取り直して物置の扉を開けた。やけに大きな音がした。

夏に降る雪/立花腑楽

 苛烈な日差しを乱反射しながら、今日も雪が降る。
 夏空から降るそれは、まるで入道雲の綻びからこぼれた綿埃にも見えた。
 夏に降る雪は、この世界に仕込まれた潜在的なバグなのだろう。発現条件も停止条件も、誰にもわからない。
 バグ故に、雪は冷たいとか、熱に溶けるとか、そんな設定値は空白のまま、降雪と積雪というイベントのみが発現する。ただ闇雲に降り積もり、世界を白く覆っていく虚無の雪だ。
 今日もひとつの街が雪に埋もれたとラジオが教えてくれた。
 虚無の雪は人を殺さない。住処だけを奪っていく。多くの難民が発生しているそうだが、ぼくのこの街だって時間の問題だろう。世界はゆっくり滅びのフェーズに入ってきている。
 あるいは冬まで世界が堪えられれば――。
 冬になって、頬のうえでぽちり冷たく溶けていく本物の雪が一度振りさえすれば、この異常は何事も無かったようにリセットされ、「何もしてないけど、とりあえず直った」みたいなことになるのではないか。
 そんなことを期待しながら、ベランダに積もった雪を口に放り込む。甘くない砂糖菓子みたいで、そのシャリシャリした食感だけは割と乙だと感じた。

2019年7月5日金曜日

嗜好回路/五十嵐彪太

 我が家には、贅沢三昧のロボット型掃除機がいる。どう考えても不良品、ポンコツ中のポンコツなのだが、家族のだれもが手放そうとか、メーカーに文句を言おうとか言いださない。
 このロボット掃除機は、吸い込むのは、イクラとかウニ、キャビアとかフォアグラ。つまり、嗜好性の強い、お高い食材ばかりを吸い込む。
 それは、この間の正月のことだった。うっかり箸から転がり落ちたイクラ一粒を見つけたロボット掃除機君、すかさず起動、あっという間に吸い込み、しばし沈黙し、そして……踊った。部屋中をクルクルと楽しそうに走り回った。
 その後、埃や髪の毛は一切吸い込まなくなってしまった。家族は、面白がってさまざまな食材を与えた。差し出すと吸い込まないので、わざと「落っことした」ように装う。滑稽である。
 米は取り寄せた高いのなら食った。海産物は魚卵は特に好きなようだ。白子もイケる。
 あれは食うか、これは食わぬかと面白がって実験しているふうだが、要するにロボット掃除機のおこぼれ?を狙って人間が食いたいのだった。
 いろいろとマズイことになっているのはわかっている。特に財布が軽くなっているのは由々しき事態だが、今日も家族総出で高級スーパーに出向く。

嗜好回路/立花腑楽

 電子部品メーカー最大手であるサイバーエモーション社(SE社)の経営破綻は、アンドロイド業界に大きな波紋を投じた。
 人間と寸分違わぬ繊細な感情演算には、SE社が誇る人工感情チップセット「嗜好回路」が不可欠とされている。
 SE社による「嗜好回路」の開発は、貧弱だったアンドロイドの感情(特に好悪表現)に「嗜好」というランダム要素を盛り込むことで、アンドロイドと人間との距離を一気に縮めた技術革新であった。
 そのSE社が消滅することで、「嗜好回路」の供給も今後は途絶える。業界人の動揺、推して知るべしである。
 そうなると注目されるのは、これまで業界二番手に甘んじていたギークコミュニケーションズ社(GC社)の動向だ。
 GC社はSE社に追随し、「嗜好回路」の廉価版とも呼べるチップセット製造を行っていたことから、今後、SE社の後釜に据わることは確実視されている。
 しかし、GC社のチップセットを搭載したアンドロイドについては、「食事のことでいつも喧嘩になる」「性的なプレイが特殊過ぎて、ついていけない」等と、一部ユーザからそのピーキー過ぎる特性を問題視する声も上がっている。