2021年6月27日日曜日

住民十色/五十嵐彪太

  その町の住民に筆記具は必要ない。なぜなら住民は指先から色を出すことができるからだ。サインは指で書けばいい。なんなら名前を綴る必要もない。色は指紋と同じく、誰一人同じ色の者はいないからだ。
 町のピアノは、誰が弾いたかあとかすぐわかる。鍵盤に指から出る色が残るからだ。観察眼のある者は、演奏後のピアノを見てどの曲を弾いたのか、その巧拙も当てることができた。演奏の巧みさと同じくらい、鍵盤に残る色の美しさももてはやされる。
 住民の指先から出る色は顔料が多かったが、まれに染料を出す者もいた。染料を出すものは己の色で服を染めることができる。己の色を纏った者は誇らしく歩き、住民の羨望の的であった。
 色の名前は即ちその色を指から出した者の名である。その町では、色と名が永遠に残る。

住民十色/立花腑楽

  マンションの階段を登っている。
 古いコンクリート造りで、どことなく公営団地の趣がある。
 まだ陽は高いはずなのに、踊り場の隅とか、廊下のちょっとへこんだところとか、そこかしかに曖昧な暗がりがわだかまっていた。
 そうした闇の中に、お目当ての人物が逃げ込んでいないかを念入りにチェックする。
 ここいらの住民はろくでなしの債務者ばかりだ。
 私財の大部分を借金のかたに取られ、挙げ句に自分の色彩まで毟り取られた連中だ。
 色のひとつやふたつを取られたくらい、どうってことない。
 しかし、その度が進むに連れ、だんだんと身を削がれるように原色へと近づいていく。
 ここいらに住むのは、ほとんど赤・青・黄の連中ばかり。実に哀れなものである。
 さて、問題なのは、それすら通り越して、真っ黒になった連中だ。
 真っ黒なので、隠れられると見つけるのに難儀する。
「鈴木さん、そこに居るんでしょう」
 俺は、ほのかに青みがかかった闇に詰問する。
 突きつけた借用証文が、涼やかに白く揺れる。

2021年6月6日日曜日

発泡性幽霊/五十嵐彪太

 「成仏する方法が、わからないのです」
 と幽霊は泣く。有名な僧、霊能者に頼んでも駄目。インチキそうなものから大仰なものまで、ありとあらゆる加持祈禱の類を試したが、ちっとも成仏しないのだという。
 何か未練があるのか、心当たりはないのかと尋ねるが、大往生の103歳だったのだという。眼前の幽霊は、どうやら自身の「一番麗しかった頃」の姿であるらしく、とても百年以上生きたようには見えぬのだが。
「では、好きだったものは? 日々の楽しみだとか」
しばし考えたのち、「お風呂……お風呂に入りたい。しゅわしゅわの入浴剤を入れて……」
 すぐに湯を沸かし、入浴剤を三個も入れた。咽かえるような人工的な柚子の香りの中、湯舟に浸かった幽霊は「ああ、極楽極楽、じょんのびじょんのび」と言うと、みるみるうちに老人の顔になり、穏やかそうに揮発していった。

発泡性幽霊/立花腑楽

 点滴されると、冷たい薬剤がすっと体内に侵入してくるのがわかる。
 幽霊に取り憑かれるのも、その感覚に似ている。
 幽霊は液状なんだと私は思っている。濁ってたり澄んでいたり、さらさらだったりとろとろだったり。
 とりわけ面白いのは、発泡性の幽霊に取り憑かれたときだ。
 幽霊は私の魂にしがみつく。ぷちぷちと弾ける気泡が、冷たく繊細な棘みたいに私を苛む。
 それは爽快感を伴う不思議な痛みで、ずっと飼い殺しにしてきた古い記憶の扉をノックする。
 ただ、幽霊の発泡はそんなに長くは保たない。
 しゅわしゅわと気が抜けたあとでは、他の凡庸な幽霊と何ら変わるところはない。
 一抹の名残惜しさを覚えながらも、私は気の抜けた幽霊を冷淡に放逐する。
 まるで断末魔のように、あるいは品のない噫のように、最後の一粒の気泡がぷちっと弾ける。