2020年2月23日日曜日

骨神/五十嵐彪太

 カタカタとポケットから音がする。手を入れて、それをやさしく握ると静かになった。あっちには行くなと言っているのだろう。
 骨神さんの入った袋はおじいちゃんにもらったままで、もうボロボロだ。おばあちゃんが作った巾着袋は、生前の骨神さんと同じような色、らしい。
 穴が空くと骨神さんがこぼれてしまうから、そうなったら繕うか、作り直すしかないけれど、真新しい袋は嫌がるだろうな、と思う。匂いが変わるから。
 骨神さんが行くなと言った先には、公園がある。たぶんタローが来ているのだろう。タローは生前の骨神さんと会ったことはないのに、すれ違えば絶対に吠える。骨神さんがポケットにいないときには、吠えない。
 それに、長谷川さんはタローを引っ張るのと反対の手を必ずポケットに入れるのだ。長谷川さんのポケットにも骨神さんが入ってるに違いない。長谷川さんちも古い家だし。明日こそ、学校で聞いてみよう。

骨神/立花腑楽

「死んで焼場に行くまではお世話するつもりだったけど、信心が足らんかったかねぇ」
 足りなかったのは信心ではなくて、カルシウムではなかったか。
 ともかく、骨粗鬆症になった祖母に代わり、あたしは骨神様の巫女となった。
 ちなみに、母は若い時分にスキーで骨折したことがあるので、巫女の要件を満たしていない。骨神様の依代たるには、健やかな骨組織が不可欠なのだ。
「骨神様は、一等大切な骨に遷座あそばすのさ。ユキは手先が器用だから、きっと骨神様もそのあたりにおわすだろうね」
 祖母も含め、周囲の大人たちはそう言った。
 然り。骨神様が自身の社に選んだのは、私の右手薬指中節骨であった。
 しかし、祖母以上に不信心なこの巫女ときたら、何か気に食わないことがあると、手指の関節を無闇矢鱈にバキバキ鳴らす悪癖がある。
 御座所がぐらぐら揺れるものだから、骨神様はそのたびに驚いて、手根骨、尺骨(橈骨経由の場合もある)、上腕骨、肩甲骨、鎖骨を駆け登り、私の中心部にお隠れあそばす。
 その御神渡りの感覚に、あたしの右腕はいつも「うひゃあ」となる。

2020年2月13日木曜日

キッチンに鯨/五十嵐彪太

 小さ過ぎる鯨がシンクにいる。
 鯨の傍らには、旅行鞄がある。旅行中なのか?
「小さいとお思いでしょうけれど」
 喋った。鞄の中を開けてみろという。中には、セピア色の写真があった。大ジャンプをする迫力満点のクジラの写真。ホエールウォッチングする船から撮ったものだろうか。
「母です」
 小さくとも鯨であることを言いたいらしいが、古い写真のほうが気になってしまう。
「これは、いつ頃の写真?」
「人間の時間の数え方を知りませんで」
 調べると、この鯨はシロナガスクジラだった。寿命が結構長い。写真は70年くらい前のものだとわかった。
「お母さんは今も元気なの?」
「独り立ちしてから会っていません。声は聴いたことがあります。返事はしましたが、何しろ私の声は小さいので」
 しばらく鯨はシンクに滞在した。洗い物をする時は洗面器に移動してもらった。
 色々と事情がありそうな鯨に、あれこれ聞くのも悪い気がしたので、母鯨の写真の入手については敢えて聞かず、旅行鞄のことだけ訊いてみた。人形作りをしているお爺さんが作ってくれたそうだ。その話はカレーを作りながら聞いた。
 別れの前に、鯨と写真を撮った。フイルムカメラなんて久しぶりだ。キッチンを背景に、小さな鯨と笑顔の自分。現像して鯨に渡した。
「色付きの写真、嬉しいです」
 二枚に増えた写真入り鞄とともに、鯨は蛇口に吸い込まれていった。

キッチンに鯨/立花腑楽

 流しの蛇口からどろどろした黒い液体が垂れてきて、それはあれよあれよという間に凝り、いつしか鯨の形と成った。
  一応は生きているらしく、キッチンの宙空をぐるぐると遊泳している。
  邪魔にもならなさそうなので放っておいたが、数日後の早朝には、あっけなく死んで、キッチンの床にひっくり返っていた。
  生きて宙を泳いでいる分には、特に障りも無かったが、死んだとなると始末に困る。放っておけば、腐って臭いも出てくるだろう。
  そうは思っていても、元来の無精ゆえ、ぐずぐずと見て見ぬふりをしているうちに、鯨の骸はすっかり骨だけになってしまった。
  どこからやって来たのか、何だか白っぽい蟹やら、目のない鱶やら、海羊歯みたいのやらがわさわさと鯨骨に集っている。
  なるほど、これが鯨骨生物群集というやつかと思った。
  よく見れば、どいつもこいつも健気で愛嬌がある。鯨にはてんで感じなかった愛着のようなものが湧いてきた。
  キッチンの灯りを消して、鯨骨を枕に横になる。まるで深海にいるみたいなゆったりとした気分になる。
  この死に方は悪くないなと思い、少しこの鯨が羨ましくなった。

2020年2月1日土曜日

脂溶性の音楽/五十嵐彪太

 第一バイオリンが、バターを弓に塗り始めるのが合図だ。
 トランペッターが、ピストンに溶かしバターを垂らす。
 オーボエ、ファゴット、クラリネット各奏者はバターケースからリードを恭しく取り出し、口に入れる。指揮者が羨ましそうに一瞥する。そんな指揮者の指揮棒もバターケースから出てくるが、さすがに舐めることはできない。
 交響曲の始まり。第一楽章でよい香りがし、第二楽章で涎が溢れ、第三楽章で欲望は頂点に達する。
 第四楽章が終わると、拍手もそこそこに、観客も楽団員も指揮者も、隣のパンケーキ屋に殺到する。

脂溶性の音楽/立花腑楽

 白湯が盃に注がれ、さらに数粒の油滴が垂らされる。
 所作が流れるように美しくて、つい見とれてしまう。
 主人はその盃を私に差し出し、さあどうぞ、と促した。
 鼻、唇、舌、口腔、食道、胃。感覚細胞のひとつひとつが剥き出しになり、剣山みたいに尖っていく気がする。
 私は盃をおしいただくと、ことさら作法通りに口をつけた。
 まずは白湯の温かさ。少し遅れて、ごく幽かな油の風味――。
 瞬間、ざわっと感覚細胞が色めき立つが、油滴は白湯とともに口中をするすると滑り落ち、何の感慨も残さないまま消えていく。
 しまった。捉えきれなかったか。
 そう思った刹那、糸のように細いレトロネーザルが、喉奥から鼻腔へと抜けていくのを感じた。
 鼻腔をかすめるささやかな薫香の奥に、私はある弦楽器の音色を聞く。
「胡弓、でしょうか」
 主人はにっこりと微笑むと「お見事でございます」と頭を垂れた。