2023年8月6日日曜日

地平線の掠れ/五十嵐彪太

  歯科医院の待合室には大きな絵が掛かっている。
 絵はパステル調のかわいらしい色合いで、原っぱの一本道に子供が立っている。一本道は原っぱとの境が曖昧で今にも消えそうな道なのに、空と地面の境は妙にくっきりしている。
 私は歯科医院に行くたびにその大きな絵の前に立つ。一瞬だけ、自分が絵の中の子になったような気になる。草の匂い、頬や首筋に当たる風を体感し、くっきりとした地平線を凝視する。
 段々と絵の中に居られる時間が伸びてくる。一方で、あんなにくっきりしていた地平線がよく見えなくなっている。歯科医通いが終わったら眼科医通いだろうか、などと思う。ふと、絵の中で少し動けるようになっていることに気付く。一歩前に出ると地平線がまたくっきりする。このまま歩いて、掠れる地平線を追うのもいいかもしれないと思う。
「お会計です。今日で最後ですね」
 残念、治療が終わってしまった。半年後、定期健診でひさしぶりに訪れた歯科医院には、絵は掛かっていなかった。
「あの絵、どうしたんですか」
 地平線が掠れて、滲んで、消えてしまった、とか?
 冗談めかして言ってみると、受付の人は少しも笑わずに頷いた。

地平線の掠れ/立花腑楽

 大地の果てに、コカ・コーラの空き瓶を捨てに行く。
 目的地は、ただひたすら西の地平線で、迷う懸念は微塵も無いはずだった。
 黄昏の、あの蕩けゆく太陽を幾夕も見続けたせいだろう。
 眼球は乾き、視界がおぼつかない。地平線は何重にも掠れて見え、まるで五線譜のようだと思った。
 さて、私が目指すのは何段目の地平線だったか。
 不安に思っていると、ぽっかり黒い人影が眼前の夕陽を遮った。
 その男の手には、スプライトの空き瓶が握られている。
 あなたはどちらに向かうのですかと問うたが、ひどく甲高い声でよく聞き取れない。
 仕方ないので、黙って彼に追従することにした。
 私が目指すべき地平線は、少なくとも彼が目指すそれよりは、きっと下の線なのだろう。
 茜に濡れそぼり、とぼとぼと、男と私はそれぞれの最果てを目指す。
 背後に伸びた影が、とてもとても長い。