2021年7月18日日曜日

泥を飼う/五十嵐彪太

 「あの人形、買うことはできますか?」
 と尋ねたのは、そこが玩具店でも雑貨店でもなく、古書店だったからだ。
 古書店の店主は、顔にクエスチョンマークを付けながら棚を見上げ、おそらく長年忘れていたであろう人形を認めると、顔のクエスチョンマークは怪訝さを増した。植物に関連する古書を多く扱う店だが、この人形の本性は知らなかったようだ。
 連れ帰ってきた人形、まずは念入りに埃を払う。ひどく汚れているが、水洗いなど言語道断だ。ぐずぐずに崩れてしまう。とはいえ、干乾びて動くことも話すこともできない。固く絞った布巾で慎重に身体を拭いてやると、もぞもぞと動きだした。間違いない、生き泥だ。
 「どこの土の子?」と尋ねると、畑と山のミックスらしい。ならばと、フードは肥料と腐葉土を混ぜたものにした。時々ミミズをやると喜んで身にまとわせた。
 調子が良くなったところで植物の世話と頼むと、とても張り切った。だいたいの植物ははじめからうまく世話を焼いていたが、観葉植物には馴染みがなかったようで、手こずる様子が愛おしい。
 次第に観葉植物にもなれ、庭も屋内も、植物が勢いを増した。部屋には栄養豊富な土が堆積し、私は蔓に巻かれ始めた。もうどちらが飼われているのかわからなくなる。いずれ私も人の形をした泥となるだろう。

泥を飼う/立花腑楽

  寝室の闇が何となく嘘っぽく、すかすかしている。
 夜の圧があまりにも軽いものだから、私はいつまで経っても寝付くことができないでいる。
 こんな寝苦しい夜は、泥が寝床に忍んでくる。
 泥は父のお気に入りだった。
 父が死んでしばらくは、その気配を感じることは無かった。
 どこか他所に行ったか、屋敷の奥のどこかで、人知れず乾いているのだろうと思っていた。
 四十九日の法要が終わり、家産が名実ともに私の名義になったころ、屋敷のそこかしこで、再びあいつの痕跡を見かけるようになった。
 泥濘の汚れは日に日に増し、それは私との距離感をじわじわと詰めてくるように思われた。
 そしていつしか、私の寝室まで侵すようになった。
 肌に触れる泥は、暖かくもなく冷たくもなく、湿っているようでも乾いているようでもあった。まるで猫の肉球みたいな感触だった。
 泥よ、泥よ。お前は一体、父さんの何だったんだい。
 泥はかすかに震え、私はそこにわずかな怯えのニュアンスを感じた。