2020年6月28日日曜日

Barrel aged/五十嵐彪太

 産まれたばかりの弟が樽に入れられた。樽に入れることは、産まれる寸前に父が決断した。母はやつれた顔で弟に最初で最後の乳をやり、樽に入るのを見届けた。そして兄であるはずの僕を抱き寄せた。
「今日から貴方は、オトウトになるのよ」と、掠れた声で囁いた。
 それから何年も、一人っ子だった時と変わらずに過ごした。本当はいろいろ変化があったのだろうが、僕が気が付かなかっただけかもしれないし、まわりの大人が気を遣ったのかもしれない。少なくとも表面上は、弟などいないように育った。
 弟だった兄が現れたのは、十年後。僕は中学生になっていた。髭を生やした男が家にやってきた。髭面でも自分とよく似ていることが一目でわかった。
 樽で育った人の独特な香りが家中を満たす。
「お父さん、お母さん。樽から戻りました」
 渋いテノールで言う。
「おかえりなさい……でも、予定よりずいぶん大人だね?」
と、父が動揺を抑えながら問うた。
「すみません、ちょっと熟成が進み過ぎました」
 弟だった兄は、照れくさそうに頭を掻いた。香りがいっそう強くなる。

Barrel aged/立花腑楽

「あなたはだあれ、あなたはだあれ。」
 幻聴かと思ったが、どうやらおれは樽に話しかけられているらしい。
「あなたは、シェリーでもスコッチでもないのね。やたらとごつごつしている」
 なるほど、スコッチ樽だったのか。通りでピートの効いた匂いがする。
「おれは人間の悪党だよ。ちょっとヘマをやらかして、あんたの中に放り込まれてんのさ。なに、じきにお暇するよ」
 何せ、明日の朝にはボスの前に引きずり出され、脳天を撃ち抜かれる運命なのである。
「それはつまらないわ。前の子は18年もここに居たのに。あなたもそれぐらい居なさいよ」
「構わないよ、おれを守ってくれるのならね」
 途端、樽の中の空気がほんのり熱を帯びた気がした。
「契約成立ね。18年よ。それまでは絶対に鏡板は開けないし、誰にも開けさせたりしないから」
 命の恩人との約束は守らないといけない。おれはきっかり18年間、樽の中で過ごした。
「どうだい、18年物だ。なかなかの男ぶりだろう」
 まだまだ熟成は不十分だと言わんばかりに、ふふんと樽が笑った。

2020年6月20日土曜日

インクが乾かない/五十嵐彪太

 短い手紙を書いた。
 インクが乾いたら、送ろう。
 インクが乾いたら、封筒に入れよう。
 インクが乾いたら、切手を貼って、郵便局に行こう。
 出す勇気がなかなか出ないから、「インクが乾いたら」を言い訳にグズグズしているが、もう一ヶ月もインクが乾かない。乾いているか確かめるため、指でちょっと触った跡があちこちにできて、便箋が汚れていく。

 こんな手紙がもう何枚も溜まってしまった。部屋中が生乾きの手紙で足の踏み場もない。

インクが乾かない/立花腑楽

 日記を書くときはいつも泣いてる気がする。
 ノートに落ちた涙がインクを滲ませる。
 水を得た魚のように、文字たちが涙に泳ぐ。
 そのたびに記載内容はぐにゃぐにゃと改竄され、曖昧な記憶もそれに寄り添う。
 ことに、最近の日記帳はいつもびしょびしょで、インクが乾く暇もない。
 昨晩の日記によると、私はあなた以外の男に抱かれたらしい。

2020年6月14日日曜日

奔馬性書生病/五十嵐彪太

 書生ばかりが罹る病が流行り始めた。人呼んで「奔馬性書生病」。
 勉強中はまったく平静なのだが、それ以外はどうも気が荒くなる。通学は周りと薙ぎ倒さんばかりに走る。話をすればどんどん大声になり早口になる。下宿先で炊事をすれば、水を飛び散らせ、茶碗を割り、着物を破る。
 困ったのは、住まわせていた篤志家とその家族だ。勉強中以外、騒がしくてかなわない。「もうお前は、勉強だけしておれ!」と言われるものだから、もともと優秀だった書生はますます勉学に励んだ。
 幸い、学校を卒業し官僚になる頃には治まるのが大半であった。
 若い学生ゆえの情緒不安定かと思われたが、伝染病と判明してからは世間が大騒ぎになる番である。「罹患者から採った血清が予防になる」と判るやいなや、元書生病罹患者の血液、つまり「官僚の血」が飛ぶように売れた。十五、十六の少年少女は嫌がったが、その親が「官僚の血」に色めきたったのである。
 だが親の期待は叶わない。「官僚の血」を打った書生は奔馬性書生病に罹らず、それゆえ勉学に励むこともなかったのである。

奔馬性書生病/立花腑楽

 書生病には、軟派型と硬派型の2系統が存在する。
 今回の流行で猖獗を極めているのは、どうやら前者に属するものらしかった。
 しかも、奔馬性というのだからたちが悪い。
 街の外れに篤学者として名高いお大尽の家があって、多くの書生さんを囲っていた。
 どうやらそこをゼロ地点として、街中に瞬く間に広まってしまったらしいのだ。
 歯も生え揃わぬ男児から、歯のすっかり抜け落ちた老爺まで、街中の男どもは一様にふにゃふにゃした態度となり、何やら小難しい横文字を使い始めた。
 仕事にも行かず、罹患者同士で虚学を論じあってばかりいるので、その街の生産性はガタ落ちである。
 こりゃいかんということで、市長はあわててワクチンを用意した。以前、硬派型が流行した際に開発したものである。
 しかし、硬派型から作られたワクチンには、被投与者の性格を著しくガサツにするという副作用があった。
 軟派型の罹患者は一様に柔弱な性格になっているから、そのギャップたるや想像を絶するものがある。
 多くの婦人団体が反ワクチン運動の狼煙をあげたのも、それはもう無理からぬことであったろう。

2020年6月7日日曜日

紫陽花奇譚/五十嵐彪太

 頬骨の目立つ髭の老人が短い杖を持って歩いている。老人は気難しい顔で短い杖でピシリと紫陽花を指す。美しく立派な、老人好みの咲きぶりだ。
 杖で指名された紫陽花は、サッと花色を変えたり……はしない。その代わり、老人の後を歩く老人が小さな如雨露で水を撒く。
 如雨露の老人は、ふくよかで目尻が下がった笑い顏である。小さな如雨露はブリキ製のようだ。
 杖の老人が指す紫陽花に次々と水を撒く。小さな如雨露だが、水は途切れることなくたっぷりと紫陽花に降り注ぐ。

 不思議な老人二人組の目撃情報が全国で相次いだその年、晩秋まで紫陽花が枯れなかったという。

紫陽花奇譚/立花腑楽

 キッチンの水切りの中で、淡い紫色がわだかまっていた。
 残飯を苗床にして、こどものてのひらほどの紫陽花が咲いている。
「面妖な場所で咲きなさる」
 そう言うと、紫陽花はひどく動揺して、花びらを青くしたり赤くしたりした。
「いや、実は私にも何が何だか……。名も知らぬお方、どこでも構いません。私を同朋たちのもとへ連れて行ってください」
 今度は私が動揺する番だった。そんな丁寧なお願いをされても、今年は空梅雨で、近所の紫陽花たちはみんな元気がないのだ。
 くどくどと期待に沿えないことを詫びはしたが、紫陽花は案外、けろっとした顔をしている。
「空梅雨だと聞いて納得しました。ならば、私は迷うべくして迷い、ここに辿り着いたのでしょう」
 すぅっと笑う。
「あなたからは、とても濃い雨の匂いがする。まるで蛙か蝸牛みたい。こんな人間は初めてです」
 蛙と蝸牛、紫陽花に私。何とも湿っぽいカルテットで嬉しくなってくる。
 ちょっと前に仕込んだ梅酒は、梅雨明けまでには何とか飲めるようになるだろう。
 それまでは紫陽花よ、蛙や蝸牛の話をしながら、このキッチンでゆっくりしておいで。