2020年3月21日土曜日

道化の本懐/五十嵐彪太

 緋色の衣装を着たまま、道化師はペンを走らせる。
 彼は王の前で、滑稽な言動をしてみせるのが仕事である。道化師は数多くいたが、王の前に立てるのはただ一人だった。名前を「スタニー」という。
 スタニーの動きは誰も真似できないのに誰もが真似しようとした。スタニーの発する奇声は耳をつんざき、王宮の外にも響き渡った。王の前に立てる唯一の道化師は、国民からも笑われていた。
 だが、その滑稽で奇怪な様子とは裏腹に、道化師の視線は、世を、王を、冷たく刺している。残念なことに、王はその鋭い眼差しに気が付かない。手を叩いて喜ぶ王を、スタニーは哀れんだ。最初の一日だけ。
 彼は、道化師の身でありながら、密かに書物を記した。後世にこの愚かな王の愚かな政を伝えるために。
 王宮の絵師は道化師の姿を二種類描いた。おどけた道化師と、苦悩する道化師を。
 スタニーの記した書物は、残されていない。焼けたのか、焼かれたのかも定かではない。だが、苦悩するスタニーが描かれた絵は、今も見ることが出来る。

道化の本懐/立花腑楽

 国葬が厳かに進行する。
 騎士団長の名前が読み上げられ、国王自ら弔辞を送る。
 救国の英雄の死を惜しみ、列席者たちは啜り泣きとともに哀悼の意を捧げた。
 続いて、私の祖父の名が読み上げられた。
 呆気に取られたが、それは他の列席者も同じだったろう。
 先月亡くなった彼は宮廷道化師だった。
 その類まれなる狂態と愛嬌で、国中に名を轟かせていた祖父だが、それにしたって道化師の国葬なんて聞いたことが無い。
 国王は、先の騎士団長への弔辞同様、仰々しく我が祖父の功績(というか痴態)を讃え始めたのだが、途中でグフっと息を詰まらせると、ひくひくと肩を震わせながら、そのまま式典の場に蹲ってしまった。
 それを見て、もう何というか、無理だった。
 そこかしかで、プ、グフ、グフフという忍び声が聞こえ、場の雰囲気全体がおかしくなっていく気がした。
 堪えきれないのは私も同じで、こんな状況でも淡々と葬送曲を奏でる宮廷音楽家たちに、おいお前らいい加減しろと言いたくなった。

2020年3月8日日曜日

玄関に月光/五十嵐彪太

 それに気が付いたのは引っ越して最初の満月の日だった。
 ほんの短い時間だが、玄関のドアのスコープ、あの覗き穴に、ぴったり月の光が当たるらしいのだ。
 玄関からまっすぐに青白い光が差し込む。自分の家とは思えない、神秘的な光景だった。誰かの通り道のようだと感じた。たとえばかぐや姫、とか。
 かぐや姫は当たらずも遠からずらしいとわかったのは、何度目の満月だっただろうか。ちょうどテレビも音楽も消していたときに、月明かりの道が現れたのだ。
 鈴の音が、クレッシェンドしてデクレッシェンドして、そして消えた。厳かな音だった。
 部屋を汚くしておくのは申し訳なく恥ずかしいような気がして、ずいぶん部屋が綺麗になった。いや、以前が酷かっただけなのだが。
 今夜、部屋中の灯りを消して、誰かのお通りを待つ。今日こそは会える気がする。

玄関に月光/立花腑楽

 夜半に目が覚めて、水を飲もうとキッチンに向かう。
 玄関が騒がしい。まるで猫が喚いてるような声がする。
 ああ、そうか。今晩は新月だった。
 案の定、玄関の三和土では、月に戻りそこねた月光たちが、所在なさげに潮垂れていた。
 まるで、終電を逃したサラリーマンみたいだなと思う。
 いいよいいよ、明日の晩までそこに居なよ。
 霧吹きで、お湿りを与えてやる。
 月光たちは安心したらしく、淡い蛍光色となってそこいらに蟠った。
 私はキッチンで水を飲んだあと、冷蔵庫に貼ってあるホワイトボードにメモを残す。
「月光の居残り組 明日のお迎えで全員かえすこと ←★次の満月までは絶対のこさない!!」

2020年3月1日日曜日

排水溝ロマンス/五十嵐彪太

 わたしたちは秘密の仲で、逢引き場所にはいつも困っていた。誰にも会わず、誰にも見つからない場所なんて、探せば探すほど、ないものだ。
 でも、ある時、魔女が教えてくれた。二人きりになれる場所と、そこへの行き方を。そして、ちょっとした魔法を、わたしたちは掛けてもらった。
 よくよく身体を洗ってから、排水口も掃除して、そのまま恋人に逢いに行く。
「やっぱり、ちょっと匂うね」と恋人が言う。
「がんばって掃除したのにね」と応える。
 鼻をつまみながら、ちょっとキスをする。
「明日は、漂白剤を使ってみよう」と恋人が言う。
「今度はちょっと塩素臭いかもね」と応える。
 恋人が楽しそうに笑う。こんなに笑ったのは久しぶりだ。そう、こうやって笑い合える場所が欲しかったんだ。

排水溝ロマンス/立花腑楽

 髪を洗いながら泣く。泣く。泣く。
 涙はシャワーに洗われ、シャボンとともに排水溝へと消えていく。
 がぼがぼと私の涙を飲み干した排水溝に、そっと語りかける。
――どうだった?
 シャワーで火照った身体とは裏腹に、心臓だけがしんと冷たい。
――最高だよ。天の美禄だ。
 排水溝から立ち昇るテノールに心臓がゆるむ。
 嬉しい。
 さっき流したのとは別種の涙が溢れそうになるが、ぐっと堪える。こんな涙は彼の好みではない。
 明日も私は地を這うようにして探すのだろう。
 極上の涙の素を。
 私の魂を流血させるような悲しみを。