2019年6月24日月曜日

鐚銭/五十嵐彪太

「お前になんざ、鐚一文、出さん!」
 何があったのか鐚銭には全くわからないが、オッサンたちが怒っているのだけはわかった。そして、一度言ってみたかったことを言ってみた。
「あのぅ、鐚二文でも駄目ですか。仲間を連れてきますんで」
 オッサンたちはキョトンとしている。
「え、いや……鐚銭が喋ったぞ、おい」
「はい、鐚です。鐚一文じゃ不足というなら、二文でも三文でも。すぐに揃いますんで」
「鐚、あー、あれだ。その、『鐚一文出さない』っていうのは、つまり例え話みたいなものなんだ」
「鐚、お前さんには悪いが、鐚がいくら集まっても、やっぱり『鐚一文、出さん』し、『こんな鐚、受け取れるか』には変わりなくて、な」
 オッサンたちは、目を白黒させながら、いろいろと説明するのだが、鐚にはやっぱり納得できない。
「じゃあ、あっしら鐚銭はどうすればいいんでしょうか」
「弱ったなあ、オイ。どうすればって、鐚銭は鐚銭。いくら集まっても価値は……」
「オット、いや、鐚にだって、存在意義はあるはずだ、ほら、その……」
 オッサンたちは、顔を赤くしたり青くしたりしながら、鐚銭を慰める。
「ええ、もういいっす。旦那方、喧嘩のたびに、鐚銭を引き合いに出すのはよしてくだせえ」
 オッサンたちは、顔を見合わせ「参った参った」と、笑い出した。

鐚銭/立花腑楽

「悪貨は良貨を駆逐する」というが、それは決して比喩ではない。
 たった一銭の悪貨でも、ひとたび良貨に混じれば、吸血鬼の如くその全体を汚染する。
 健全な市場から如何に悪貨を隔離するか、それは前近代の為政者にとって経済政策上の重要課題でもあった。本邦の撰銭令も、その好例だ。
 悪貨の感染性――その原因たる鐚銭ウィルスが発見されたのは、まさに近代科学の成果と言えよう。
 現在では、科学的な防疫と駆除により、鐚銭ウィルスは経済市場から一掃されている。強いて言うなら、専門機関のシビアなセキュリティの下、いくつかサンプルとしては残存しているのだろうが。
 そして、ここから少し怪しげな話となる。
 その厳重に管理された鐚銭ウィルスを盗み出し、世界経済を混乱させようとする輩が居るらしいのだ。だいたい20年周期で、そうした噂が陰謀論者たちの間で取り沙汰される。
 当然、関係機関はデマだと否定はするが、そうした噂が世に出た時点で、世界経済は既に混乱状態に陥っているものなのだ。
 案外、我々の知らぬ間、とうの昔に鐚銭ウィルスは世に逃れ、世界各地でかつてのコロニーを再興中なのかもしれない。

2019年6月21日金曜日

時間原酒/五十嵐彪太

 はじめに神は酒を醸造した。

 天と地の前に、創造主が酒を醸造したことはあまり知られていない。
時間の元となる原酒である。原酒が出来、時が刻まれ、それから天と地が生まれ、光を良しとした。

 上の水、つまり雨のいくらかは、神がこぼした時間原酒である。
 雨の日に、上を向いて口を開けている子は、よくわかっている。

 下の水、つまり海のいくらかも、神がこぼした時間原酒である。
 塩気が強いのは、肴も一緒にこぼしたからである。

 さて、神は時間原酒の大半を飲んでしまった。人々は年を経るとそのことに気が付くが、どんなに憤っても、神からの返事はゲップがせいぜいである。

時間原酒/立花腑楽

「ご無沙汰しております。時を進めに参りましたよ」
 半睡状態だった岩の翁が目を覚ます。しばらく胡乱だったが、旧知の顔をようやく認め、微笑んだ。
「貴方か。待ちくたびれてうとうとしておった」
 岩の翁の言葉に、時の翁は苦笑する。待ったと言っても、たかだか100年ではないか。
「それはそれは。では挨拶なぞ抜きで、早速お待ちかねのこちらを」
 時の翁が酒盃を差し出す。何万回も繰り返されてきた献杯。岩の翁はそれを推し戴くと、じっくりと時間をかけて中身を飲み干した。
「ああ美味い。陶然とする」
 岩の翁は深々と酒臭い息を吐いた。てらてらと赤くなった額に、ぴしり、一条の皺が刻まれる。時計の針がほんの少し前進する。
「またしばらくは無聊に耐えられそうだ。そうだ、次の一杯はもっと濃い目に誂えて貰えると嬉しいのだが……」
 時の翁は呆れ顔で答える。
「そんなご注文なさるのは、貴方の他に龍の翁くらいなものです。第一、濃いも薄いも、これは甕出しの原酒だ。樹の翁など、もっと薄くしたのを召し上がりますが、充分ご満足されてますよ」
 意地汚さを窘められ、岩の翁の顔が一層赤くなる。

2019年6月6日木曜日

虚空健康法/五十嵐彪太

 静かである。早朝の公園で体操を開始して十分程経過したはずだが、荒い息は聞こえない。
 人気のない朝の公園。空気は涼しく澄んでいて、新緑が濃い。実に身体によさそうである。
 息が上がっていないわけではない。この静寂に吸い取られてしまっているのだろう。それくらい朝の公園は静かだ。
 軽く公園内をジョギングをする。静かだ。足音がしないのだ。音だけでなく地面の感触も薄れていく。タイムは悪くない。
 走り終わったら、念入りにストレッチだ。寝転んだり、捻ったり。大地の感触が希薄で、どうも力が入れにくいが、心地はよい。木々の緑が滲んでいく。朝の空の青と木々の緑の境界が曖昧になっていく。十五分はしっかりやろうと思ったが、時計が止まってしまった。
 大の字に寝っ転がった。上も下も、右も左も、虚しい空が広がっている。なんだかとても健康になった気がする。

虚空健康法/立花腑楽

 谷田さんは萎縮しているように見えた。それは病状が気がかりなのではない。やましさを隠そうとしているのだ。
 それを分かっているので、私はことさらに憮然とした顔つきになる。
「症状は胃の不調。食事後、すぐに空腹感を覚える。そうでしたね」
「ええ、まぁ」
 谷田さんは肥満体型で汗かきだ。首筋の汗をハンカチで拭いながら、ふぅふぅ答える。
「こちらも色々と診ましたがね、肝心の胃が見当たらないんじゃ話にならない。あなた、虚空健康法やってるでしょう。なぜ問診時にちゃんと言わないんですか」
 厳しい口調で畳み掛けたが、半ば予期していたらしく「えへへ」と笑いやがった。むかつく。
 虚空健康法は最近の流行だ。患部の治療のみならず、“管理”や“運営”までもを、「虚空」にまるっと委託するのだという。そんなもの、うちみたいなカタギの病院では到底サポート致しかねる。
「紹介状を書きます。あちらの病院に行ってください。▊▆▇▅▄君、書面の用意を」
 ▊▆▇▅▄君の触手にメモを渡す。
 彼(あるいは彼女)は新人看護師で虚空の出身者だ。虚空語を読み書きできるので、こんなときはとても重宝する。