2020年1月26日日曜日

爪先に炎/五十嵐彪太

 タオルだけ巻いた身体をぎゅっと縮めて、足の爪先に火をつける。
「危ないから、あっちに居て」と言うのに、息子も娘も猫も覗きにくる。
 娘はちょうど「マニキュア」を覚えたばかりだからか興味津々だが、息子は「おかあさん、燃えちゃう」と、それこそ火をつけたように大泣きする。
 指一本にマッチ一本。ジャムの空き瓶に、仕事を終えたマッチが一本ずつ溜まっていく。
 猫は匂いを嫌って、いつの間にかいなくなり、娘は母の裸足を凝視し、息子は「はやく消して、おとうさん」と泣き叫ぶ。
「もうちょっと、もうちょっと」と夫が言う。
「熱くない?」と娘がさすがに心配した声で訊く。
「もうちょっと、もうちょっと」と私も言う。
「熱くなってきた?」と夫が言う。
「あと五秒…四、三、二、一」
 夫が誕生日ケーキの蝋燭よりももっと勢いよく吹き消した。
「わあ! お母さんの爪、きれい!」と娘が感嘆する。
鱗が伸びてきた私の爪先が、ひととき、人間のそれと見紛うものになる。除光液で拭っても、赤いままだ。

爪先に炎/立花腑楽

 あなたの手はいつも冷たい。
 だから、そんなあなたの手にぽうっと炎が宿るとき、私はいつも倒錯する。
 それは、中指の爪先に灯る、タバコの火口みたいなささやかな炎だ。
 ささやかだけど、それで充分。
 充分なのだ。私を爆発させるには。
 今宵もまた、あなたの指先が私の芯に触れる。
 あなたの炎は導火線を駆け抜け、私の発火点に到達する。
 ばらばらに爆ぜた私を、あなたの手が再整形する。
 やはり、あなたの手はいつだって冷たい。

2020年1月18日土曜日

猫を釣る/五十嵐彪太

「どこに行くの?」と問われて「釣りに」とだけ答えて家を出た。
 母は訝しんだかもしれない。釣竿も持たずに出て行った息子を。
 湖に着く。あまり普通じゃない湖なんだろうと思う。魚は泳いでいない。
 腰掛けるのによさそうな石(思ったより重くて難儀した)を移動させてきて、ポケットから紐を取り出し、湖に垂らした。
 透明度が高い。水のように見えて、水ではないのだと思う。
 垂らした紐をふるふる振るわせたり、ゆらゆら揺らしたりするうちに、グイっと手ごたえがある。こちらも引っ張り返す。
 すぐに紐が軽くなる。また、ふるふる振るわせていると、ひときわ強い力で引っ張られた。
 湖を覗くと、猫が一匹、紐を咥えて引っ張っている。前足も伸ばして、爪が紐に引っかかっているようだ。ちょっとだけブチ模様のある、概ね白い猫だ。
 そのまま紐を手繰り寄せる。白い前足がちらりと湖面に現れたところで、猫は紐を離してしまった。
 湖を覗く。猫は湖底を走り回っている。

猫を釣る/立花腑楽

「猫を釣りに行ってくる」
 そうケンタは言った。
 ランニングに短パンで、おまけに麦わら帽までかぶってる。「夏の小学生」という概念が、そのまま具現化したようだ。
 おもしろそうなので、その猫釣りに連れて行ってもらうことにした。
 大急ぎで大きなおにぎりをふたつ拵える。
 潰れ梅干しをぎにゅうとおにぎりにめり込ませながら、
「で、猫ってのはどうやって釣るものなのかね」
 そう聞くと、リュックの中からご自慢の七つ道具が開陳された。
 猫じゃらしに鰹節、マタタビ粉。その他、得体のしれないびよびよびらびらな玩具たち。
 なるほど、装備は万全らしい。
 よしそれじゃあいざ出発、という段になって、ケンタセンパイからありがたい訓示を頂戴する。
「猫を釣る猫を釣るぞって、そればっかり考えてると、逆にこっちが釣られちゃうんだよ。やつらの尻尾に注意して」
 じゃあ短尾種の猫はどうなんだろう。そんな益体もないことを考えていたら、
「食うか食われるかの世界なんだ。もし、お姉ちゃんが危なくなっても、ぼくは助けてあげられない」
 何だか聞き捨てならない不穏なことを言い出した。

2020年1月12日日曜日

御神籤/五十嵐彪太

 初詣でおみくじを引くのは久しぶりだった。最近はおみくじもデジタル化している。電子マネーで100円。スマホでピッとするとパッと画面におみくじが現れた。風情もありがたみもないな……と思ったが、あたりを見回すと老いも若きも熱心に画面上のおみくじを読み込んでいるようだ。
 改めて、画面に目を落とす。「並」? 
「待ち人 来るかもしれない来ないかもしれない」
「失せ物 出るかもしれない出ないかもしれない」
「学問 とりあえず勉強はしたほうがよいだろう」
 頼りなく意味のない文面のおみくじである。皆どうしてこんなのを熱心に読んでいるのだろう。
 一通り読み終わると「結びますか」と画面に出た。「はい」を選ぶと、画面操作でおみくじを疑似的に畳み、結び目を作るように促される。なかなか難しい。悔しいのでムキになってしまう。ああ、皆これをやっていたんだなと合点した。
 やっと結び終わる。
「48秒 中吉」
「もう一度引きますか」

御神籤/立花腑楽

 神域の闇に、静とした風が流れている。
 弱々しいが、それは確かに羽ばたきの風圧だ。
 するすると枝からほどけた御神籤たちが、夜空に旅立っていく。
 小さな紙片もあれだけ集まれば、それなりの重量だったのだろう。丸裸になった神木たちは、どことなく清々として見えた。
「大群が西に飛んだぞ。護界ヶ森に渡る気だ。おい、子組は鷹を出せ。丑組と寅組は走って追うんだよ。万事手筈通りだ」
 神職に雇われた回収業者たちが一斉に動き出す。途端に、異形どもの気配が年始の寒夜に満ちていく。
 恒例の御籤追い神事が、今年も始まる。