2019年11月29日金曜日

祖母の凱旋/五十嵐彪太

 朝早く目が覚めた。ばあちゃんが帰ってくるぞ! と口に出して言ってみた。
 先月帰ってきた隣のチヨばあちゃんは、うちのばあちゃんよりも七つ年上だけど、出掛ける前よりずっと元気そうだった。迎えに行ったじいちゃんのトラックの荷台で、高々と花束と杖を掲げて「帰ったよー!」と叫んだ。
 向かいのハナばあちゃんは、照れくさそうに、でも堂々と、愛用のスカーフを振り回してみせた。
 待ちに待った、うちのばあちゃんの凱旋だ。昨日の夕方、父ちゃんが「じゃ、ばあちゃんを迎えに行ってくる」と神妙な顔で出て行った。うちのばあちゃんは何を振り回すんだろう。
 外に出てみると、大通りには「トヨちゃんおかえりなさい」と横断幕が掲げられている。町のみんなが出てきてソワソワしている。
 父ちゃんのトラックの音が聞こえてきた。「トヨちゃ~ん!」「おトヨさん~!」一斉に声が上がった。
 ばあちゃんは得意満面の笑みで、紫色の傘を開いたり閉じたりして歓声に応えた。「ただいま~!」と、ばあちゃんは傘を大きく振り回した。こんなに大きな声を出すばあちゃんを初めて見た。
 この町ではこうやって、老女が出掛けていき、帰ってくると盛大に迎えられる。どこに行って、何をしてくるのか、大人は教えてくれない。家に帰ってきたばあちゃんは、ソファで鼾をかいて眠っている。近づくと、香水の匂いがした。

祖母の凱旋/立花腑楽

 夜明けのちょっと前に出かけた祖母が、朝陽とともに帰ってきた。
 額に少し出血している。
「シュウちゃん、ただいま。ちょっと絆創膏持ってきてくれる?」
 鏡も見ずにぺちんと絆創膏を傷口に貼りつけ、そのまま何事も無いようにエプロンを身につける。
「もう朝市が開いてたからね、帰りに寄ってみたの。見てよこのワカメ、安かったのよ」
 丁寧に出汁を引いて、ワカメの味噌汁を拵える。
 お米を研いで炊飯器にセットする。
 グリルの中で、アジの干物がブチブチと鳴いている。
 朝の気配は乳白色だ。朝餉の湯気の色だ。それが瞬く間に食卓に満ちていく。
「今朝のはちょっとキツかったから寝直すわ。パパとママが起きたら、そう言っておいて」
 我が家が誇るパーフェクトレディは、大あくびをしながら寝室へと帰っていく。
 祖母が世界を救ったのはこれで五度目なのだが、いっつもこんな感じなのである。

2019年11月22日金曜日

ソの島の奥/五十嵐彪太

 上陸した途端、すべての音がGだった。
 木々の揺れる音、自分の足音。
 小石を落として、別の石にぶつかる音も、G音。
「この島……なんか、音がおかしくありません?」
 絶対音感がない同行者でも気が付いたようだ。
「ああ、ドレミで言うと、『ソ』だね」
 地図にない島が見えると司令部に連絡したのは三日前。
 返ってきた「その島へ直行せよ」という命令は「その島」ではなく「ソの島」であったか。
 島を探索する。鳥の声は数種類は聞こえるが、どの囀りもG音。
 果物をもいでも、それをかじっても、咀嚼しても、G音。
 島の奥には大きな岩穴があった。植物の蔓で出来た縄が張ってある。ここが何かしら、神聖な場所の入り口であることを示していることは明確だった。
 「入りますか?」
 同行者の話し方も抑揚が少なくなり、G音に近づいている。
 「入ろう」
 私の声もいつもより高い。「隈なく調査せよという命令だ」と続けた声は、完全に抑揚のないG音だった。
 洞窟。足音が響く。水滴が落ちる。耳鳴りのような奇妙な歌が聞こえてきた。ソの島の奥へ、吸い込まれる。

ソの島の奥/立花腑楽

 その島の名称については諸説ある。

 一書に曰く――。
 島奥の洞穴に、地底に通ずる大穴あり。
 本邦の根源一切この穴より生ずと云々、島人の伝承にあり。
 故に本島、祖の島と名付く。

 また一書に曰く――。
 島奥の洞穴に、地底に通ずる無数の小穴あり。
 雨水この小穴より漏れ、根の国を潤すと云々、島人の伝承にあり。
 故に本島、粗の島と名付く。

 さらに一書に曰く――。
 島奥の洞穴に、地底に通ずる無数の小穴あり。粘土を掘りたる跡なり。
 古人、呪いのために土人形を盛んに塑像すと云々、島人の伝承にあり。
 故に本島、塑の島と名付く。

 などなど、諸説紛々ではあるが、「穴」がキーワードであることは間違いない。
 その謎を解くべく、熱い学究の志を胸に、問題の穴に飛び込んではみたものの、未だに穴の底にたどり着けないでいる。
 落下しながらも、とりあえず論文の「はじめに」までは書き終えてしまったが、はてさて、真理に至る道未だ半ば、といったところである。

2019年11月16日土曜日

風吹けば/五十嵐彪太

 近頃、指の輪っかに富士山を入れて写真を撮るのが人気なんだと。道理でオーケーサインをしている人をよく見るなあと思ったよ。富士見町や富士見坂、大混雑だ。
 そのうち輪っかのほうに凝る奴が現れて、はじめ指だったのが、指輪に富士山を入れるようになった。きれいな指輪に、ぴったり富士を収めようと夢中になる人がたくさんいた。ダイヤモンドの指輪がよく売れたらしい。
 ダイヤモンド富士の流行りが落ち着いたと思ったら「大きな輪と小さな富士の取り合わせがいい」なんて言って、富士見坂でフラフープやタイヤを掲げる奴が出てきた。迷惑な話だねえ。
 それで、今度は桶屋が儲かってるって知ってるかい? 「巨大な輪っかに入って富士山と写真を撮るんだ」ってさ!


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『点字物語「天の尺」~手すりで繋がる北斎の娘と私たち~』
葛飾北斎 尾州不二見原 より
2019年11月東京スカイツリー天望回廊にて展示

螺旋高楼/立花腑楽

 螺旋階段を登り切ったところで眺望が開けた。
 真っ青な空の下、遠くで富士山がきりりと輪郭を保持している。
 それを眺めながら深呼吸すると、ぐらり、足元がほんの少し揺らいだ。
 他の参詣者は「はてな」という顔をしている。あるいは気の所為と思ったかもしれない。
 だけど、その理由をぼくは知っている。
 この五百羅漢寺のさざえ堂、実は少しずつ成長しているのだ。
 霊峰富士を一目見ようと、毎日毎日、多くの参詣者が螺旋階段をぐるぐる登る。その勢いにつられ、螺旋階段自体もちょっとだけ回転する。
 回転すれば前に進む。それが螺旋というものだ。
 螺子を回すように、さざえ堂は今日もぐりぐり空を掘り進む。
「そのうち、ここから富士の火口だって見下ろせるようになるかもな」
 そう思った刹那、「今に見ておれ」と言わんばかりに、また足元がぐらりと揺れた。


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『点字物語「天の尺」~手すりで繋がる北斎の娘と私たち~』
葛飾北斎 五百らかん寺さざゑどう より
2019年11月東京スカイツリー天望回廊にて展示

2019年11月8日金曜日

致詩性の毒/五十嵐彪太

 絶対に手を出すまいと思っていた薬の小瓶を前に、私は胡乱な動きをしている。かれこれ三日間も。
 瓶の中は、虹色の液体……美しく零れたガソリンの如き。おおよそ人が飲むものには見えない。
 これを私に押しつけた人物は、わが国でもっとも高名な詩人だ。
「致詩性の毒」
 噂には聞いたことがあった。
「私は十分に老いた。まだ死ぬつもりはないが、詩を書くのに毒は必要なくなった。次にこれを使うべき詩人は、貴方しかいない」
 シミと血管の浮き出た手から、受け取ってしまった。老詩人は、親切にも、薬の増やし方まで教えてくれた。
 この国民的詩人は、これを一体いくつ飲んだのだろう。
 私は、この国のための新しい歌の詩を依頼されている。できれば断りたい仕事だった。私の作風には合わない依頼なのだ。だが、あの老詩人が私を是非にと推薦したという。
「貴方も長生きしなさい。そして、次の詩人にこれを託すのです。この毒に侵されたまま詩人が死ぬのは、あまりにも不幸だ」
 老詩人の言葉をもう三日間も反芻している。

致詩性の毒/立花腑楽

 一方は死に至る毒薬。そしてもう一方は詩に至る毒薬。
 どっちだって同じことだ。どうせ毒なんだし。
 そう思って一気に呷ったそれは、どうやら後者だったみたい。
 斯くて、私の余生は詩に向かってひた走る。
 毒に侵された体組織はメタファーに変異し、弱りゆく脈拍は韻律に転調する。
 生命体としての私はじわじわと希薄になって、一方で詩たる俺はくろぐろと硬質化する。
 近く、君はきっと見るだろう。死の床に横たわる俺を。
 或いは五言絶句を。
 或いはソネットを。
 或いはとりとめのない口語自由律を。