2020年8月23日日曜日

隠者たちの集い/五十嵐彪太

 人嫌いが高じて、隠遁生活四十年。名前も年齢もよくわからなくなった。
 だが、この集まりにはどうしても行かないといけないような気がした。
 会場は人里離れた森の洞窟。隠者が集まるのにちょうどいいちょっとした洞窟だそうである。誰が見つけたのだろうか、まあ、それはよい。
 問題は集合日時である。暦だの刻限とは無縁の生活をして長いが、元々は几帳面な質であった。今日は何月何日で、集まりの日付は何月何日で、毎日のように確かめずにはいられない。
 風呂も身形も気にしていなかったが、遠出するには身支度が必要だ。少ない荷物の中からようやく当日着ていく衣服を決め、そこから毎日、身体を濯いだ。
 ひさしく乗り物にも乗っていないので、これも毎日経路を調べ、最寄り駅から洞窟までの道順を確かめた。
 そして、いざ会場へ。自分と似たような小汚くも奇妙に小奇麗にした人々が、もじもじしながら洞窟の中で俯いている。
「では自己紹介を。お名前は?」と促されるが、蚊の鳴くような声で「忘れました……」と次々言う。最後の一人も「忘れました……」
 ここでようやく洞窟内に安堵と連帯感がほんのり生まれる。

隠者たちの集い/立花腑楽

  他者と顔を合わせない。鏡も見ない。
 そんな生活が長くなると、輪郭が曖昧になっていく。
 人型を維持する機能が退化するからだ。
 もともと見た目なぞ頓着しない連中なのだが、里の人々から化け物扱いされ、隠遁生活を脅かされるのも困る。
 そうした背景があって、近隣に住む隠者同士、定期的に会合を開くことにしていた。人型維持機能の活性化が目的である。
「あなたのその鼻。人間の鼻はそんなに長くない。いい加減なものをぶら下げててはいかん」
「いや、こんなものではないか。随分前に見た里の男衆も、こんなものでしたぞ」
「どうにも、もっともらしい鼻の形が思い出せん」
「お、竹林さんの鼻がちょうどよさそうに見える。一同どうだろう、彼の鼻をお手本としてみては」
「賛成、賛成」
 斯くして、隠者の顔なぞというものは、古今東西、大概は似たりよったりになってくるのであった。

2020年8月17日月曜日

神様/五十嵐彪太

 焙煎する前に準備をしながら「きみたちはイタリアンローストにするよ」と声を掛けてから始める。すると「我々は真っ黒になってしまうのだな」「悪くはないな」「いや、シティーローストがよかった」などと声が聞こえてくる。
 それから、ブラジルだとかコロンビアだとか、故郷の思い出話が始まるのがお決まりだ。
 珈琲が饒舌なのは、「生豆」の段階だ。焙煎が終わる頃にはすっかりおとなしくなる。炒り終えたコーヒー豆が喋っていたら、喫茶店は、五月蠅くて仕方がないだろう。
 だが、かつて一度だけ、いや、一粒だけ、焙煎が終わってもしゃべり続ける豆がいた。「皆、黙ってしまったが、どうしたことか」「焦げたからだろうか」「ここはどこか」
 その一粒は、自宅へ持って帰って瓶に入れて、なんとなく思い立って神棚に置いた。
 朝、出掛けに神棚を拝むと、時々ぼやきが聞こえる。「すっかり焦げてしまった」と。そんな日は、焙煎がうまくいくのだ。

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珈琲の超短編 井上雅彦賞(大賞)受賞

Hello, world/立花腑楽

 少量の湯に蒸され、豆の粒がじわりと開く。少し、淫らに感じる。
「美味しい珈琲を淹れられるようになりな。魔術はそこから始まるのさ」
 師匠の言葉を思い出す。師匠は天現寺あたりを寝ぐらにする魔女だった。
 そんなことを言う割りには、彼女の珈琲は旨くなかった。
 狸を溶かし込むのが天現寺流だというが、あのぼやっと野暮ったい風味には閉口したものだ。
 あれから幾星霜。
 いっぱしの魔術師になった私は、魔術の技量はともかく、珈琲の淹れ方では師匠を凌駕した自負がある。
 狸みたいに野暮じゃない。黒豹を触媒とするのが、私のオリジナルだ。
 ビロードみたいに錬られた黒豹珈琲には、何より速度がある。
 一口含めば、その薫香は瞬く間に鼻腔を駆け抜け、眉額を突き破って世界に飛び出していく。
 風通しがよくなった脳髄では、
「Hello, world」
 この世界を寿ぐ呪文が紡がれる。


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珈琲の超短編 タカスギシンタロ賞受賞


2020年8月15日土曜日

兎さ晴らし/五十嵐彪太

 中秋の名月が出る前の朝。良く晴れている。兎さ晴らしだ。
 月の兎たちは忙しいが、地上の兎たちはおおはしゃぎである。
 人間もこの日は夜を待ち、空ばかり気にしており、地上の兎のことに構っていられない様子。
  実在の兎も概念の兎も架空の兎も物語の兎も、日頃の鬱憤を晴らそうと駆け回り、食べ散らかす。
  そんな中 「それで、ヒゴロのウップンって何なの?」
  兎語を解してしまった人間の子供が訊ねたものだから、兎たちは興を削がれ、怒り狂った。そして怒りのあまり鬼となった兎がここに一匹。角を生やした兎は、名月の晩、月の兎に見守られ、毛を生やした亀を探しに行く旅に出る。

兎さ晴らし/立花腑楽

 兎と烏のロマンスがあったっていい。
 玉兎たちは、一人の同胞のために道を開ける。
 月から太陽まで一直線。
 雲がすっかり晴れた夜空を、月の兎が走る。走る。
 天蓋をぐるっと渡り、日輪に至る。
 想い人の金鳥を抱きしめた瞬間、陰と陽とが交合する。
 夜も昼もなく、世界はまっさらに晴れ渡り、白い獣毛と黒い羽毛だけがはらはらと舞い踊る。

2020年8月9日日曜日

偽食家の食卓/五十嵐彪太

「旦那様、本日の夕食はどうなさいますか」
 旦那様と呼ばれた男は、執事に応えた。
「今日は中華にしようか」
 執事は厨房にいるコックのところへ、ではなく、特別な鍵が掛かった部屋へ向かった。
 二度、三度と鍵を開けて入った部屋は、薄暗い。紫外線で傷むものも多いのだ。
 中華の棚から、来々軒のチャーハンを取り出す。これはかなり古い。昭和四十年年代、初期の樹脂製だ。
 餃子は、招福飯店のもの。こちらは比較的新しく平成に入ってからのものだ。出来が良く、男の好物である。
 執事はスープで迷う。意外と男の好みに合うスープは和洋中にかかわらず少ない。慶華門の卵スープは先週も出した。しばし悩んで、酔龍楼のフカヒレスープにした。
 食品サンプルを盆に並べて食卓へ運ぶ。
「旦那様、お待たせいたしました」
 執事にはままごとにしか見えないのだが、男はそれで腹が膨れるらしい。
 執事は食品サンプルの収集と管理は性に合っているから、男の奇妙な食事を眺めるだけで金が貰えるのは悪くないと思っている。
 もう少しスープのサンプルを揃えなければと、「満腹、満腹」と腹を撫でまわす男を見ながら考える。

偽食家の食卓/立花腑楽

 口腔デバイスは正常に動作している。
 唾液リキッドの分泌量も適正。咬合力を制御するシリンダーも快調だ。
 もちろん味覚センサーにも有意な誤差は認められない。
 咀嚼物の成分を分析、クラウド上のデータベースと照合。
 結果はエラー。
「該当するテイスト・フレイバーが検索できません。 ⇒ 無視して続行/再試行」
 ここ最近、ずっとこんな感じだ。どうも彼女の作る料理は、私のデバイスと相性が悪い。
「無視して続行」を選択。続いて、リアクションモードを「Manual」から「Automatic」へと変更。
 私は微笑みながら「美味しいよ」と回答したが、彼女はとても不満そうな表情をする。
 かりかりと、私の演算処理に負荷がかかる。

2020年8月2日日曜日

ペラペラヒコーキ/五十嵐彪太

 村で初めての飛行士は、村で一番の長老だった。
 長老は自ら飛行機を作成したが、あまりにも簡素な造りだった。子どもが作る紙飛行機のほうが、よほど頑丈そうに見えた。
 村人は「プロペラ飛行機」を初めて見た上に、当地の発音では困難だったこともあって「ペラペラヒコーキ」と呼んだ。
 村人は心底心配し、そして内心嘲笑した。そして空を飛んでそのままあの世まで飛んでいくつもりに違いないと噂した。
 ついに出発の時が来た。ペラペラ飛行機は思いがけず力強い音を立て、プロペラは村人を吹き飛ばすほどの風を起こした。村人は心底驚き、長老が不在となる事の重大さに今更気が付いた。
「では、行ってくる」
 長老は旅立った。清々した。もう長老のふりをするのには飽きていたのだ。くるりと世界を一周して、その間にいろいろな被り物を脱ぎ捨てた。
「飛行機がペラペラに見えるように細工するのは、自分を老いぼれに見せるのよりも難題だった」と、かつて長老だった者は大空で思い出し笑いをする。

ペラペラヒコーキ/立花腑楽

 竜が耳の裏を掻く。仕草が猫そっくりだ。
 剥がれ落ちた鱗が、地に到達するより先に風にさらわれていく。
 きらきらと虹色に舞うそれらの一枚一枚が、よく見てみれば飛行機なのだ。
 飛行機なりに懸命に風に乗ろうとしているが、何せ出自は鱗。どうにもペラペラで心もとない。
 風に翻弄される飛行機たちに、竜は特段の訓示を垂れる様子もない。
 退屈げに地面に蟠ると、ふすんと大きな鼻息を吐いた。
 わっと飛行機たちが舞い上がるが、それでも先程よりは確かな飛び方で行き先を目指す。
 あるものは民間の飛行場へ、あるものはとある国の空軍基地へ。
 竜はかつて飛んだ蒼穹の夢を見ながら、再び長い微睡みへと落ちていく。