産まれたばかりの弟が樽に入れられた。樽に入れることは、産まれる寸前に父が決断した。母はやつれた顔で弟に最初で最後の乳をやり、樽に入るのを見届けた。そして兄であるはずの僕を抱き寄せた。
「今日から貴方は、オトウトになるのよ」と、掠れた声で囁いた。
それから何年も、一人っ子だった時と変わらずに過ごした。本当はいろいろ変化があったのだろうが、僕が気が付かなかっただけかもしれないし、まわりの大人が気を遣ったのかもしれない。少なくとも表面上は、弟などいないように育った。
弟だった兄が現れたのは、十年後。僕は中学生になっていた。髭を生やした男が家にやってきた。髭面でも自分とよく似ていることが一目でわかった。
樽で育った人の独特な香りが家中を満たす。
「お父さん、お母さん。樽から戻りました」
渋いテノールで言う。
「おかえりなさい……でも、予定よりずいぶん大人だね?」
と、父が動揺を抑えながら問うた。
「すみません、ちょっと熟成が進み過ぎました」
弟だった兄は、照れくさそうに頭を掻いた。香りがいっそう強くなる。