2021年3月21日日曜日

汚染揮毫/五十嵐彪太

  白い防護服姿で大きな筆を揮う。この特殊な墨汁は、酷い匂いがする。古くからの書家は使いたがらない。「墨」「墨汁」と呼ぶのも憚られる。書家の誇りが許さないのだ。私もできればやりたくはない。だが、近年の仕事はほとんどこの墨の指定である。
 墨汁がわずかに飛び散る。小さな黒い点がたちまち赤くなり、染みは奇妙に広がる。大作となれば、全身が赤く染まる。防護服は脱いだらすぐに焼却する。臭い。なにより気色が悪い。
 紙に書いた文字は黒いままだが、まもなく小さく身動ぐ。そして、規則正しく僅かな伸縮を始める。眠る猫の腹のようだと思う。その頃には依頼者に納品するから、文字たちのその後は見たことがない。見たくもない。