2021年7月18日日曜日

泥を飼う/立花腑楽

  寝室の闇が何となく嘘っぽく、すかすかしている。
 夜の圧があまりにも軽いものだから、私はいつまで経っても寝付くことができないでいる。
 こんな寝苦しい夜は、泥が寝床に忍んでくる。
 泥は父のお気に入りだった。
 父が死んでしばらくは、その気配を感じることは無かった。
 どこか他所に行ったか、屋敷の奥のどこかで、人知れず乾いているのだろうと思っていた。
 四十九日の法要が終わり、家産が名実ともに私の名義になったころ、屋敷のそこかしこで、再びあいつの痕跡を見かけるようになった。
 泥濘の汚れは日に日に増し、それは私との距離感をじわじわと詰めてくるように思われた。
 そしていつしか、私の寝室まで侵すようになった。
 肌に触れる泥は、暖かくもなく冷たくもなく、湿っているようでも乾いているようでもあった。まるで猫の肉球みたいな感触だった。
 泥よ、泥よ。お前は一体、父さんの何だったんだい。
 泥はかすかに震え、私はそこにわずかな怯えのニュアンスを感じた。

2021年6月27日日曜日

住民十色/五十嵐彪太

  その町の住民に筆記具は必要ない。なぜなら住民は指先から色を出すことができるからだ。サインは指で書けばいい。なんなら名前を綴る必要もない。色は指紋と同じく、誰一人同じ色の者はいないからだ。
 町のピアノは、誰が弾いたかあとかすぐわかる。鍵盤に指から出る色が残るからだ。観察眼のある者は、演奏後のピアノを見てどの曲を弾いたのか、その巧拙も当てることができた。演奏の巧みさと同じくらい、鍵盤に残る色の美しさももてはやされる。
 住民の指先から出る色は顔料が多かったが、まれに染料を出す者もいた。染料を出すものは己の色で服を染めることができる。己の色を纏った者は誇らしく歩き、住民の羨望の的であった。
 色の名前は即ちその色を指から出した者の名である。その町では、色と名が永遠に残る。

住民十色/立花腑楽

  マンションの階段を登っている。
 古いコンクリート造りで、どことなく公営団地の趣がある。
 まだ陽は高いはずなのに、踊り場の隅とか、廊下のちょっとへこんだところとか、そこかしかに曖昧な暗がりがわだかまっていた。
 そうした闇の中に、お目当ての人物が逃げ込んでいないかを念入りにチェックする。
 ここいらの住民はろくでなしの債務者ばかりだ。
 私財の大部分を借金のかたに取られ、挙げ句に自分の色彩まで毟り取られた連中だ。
 色のひとつやふたつを取られたくらい、どうってことない。
 しかし、その度が進むに連れ、だんだんと身を削がれるように原色へと近づいていく。
 ここいらに住むのは、ほとんど赤・青・黄の連中ばかり。実に哀れなものである。
 さて、問題なのは、それすら通り越して、真っ黒になった連中だ。
 真っ黒なので、隠れられると見つけるのに難儀する。
「鈴木さん、そこに居るんでしょう」
 俺は、ほのかに青みがかかった闇に詰問する。
 突きつけた借用証文が、涼やかに白く揺れる。

2021年6月6日日曜日

発泡性幽霊/五十嵐彪太

 「成仏する方法が、わからないのです」
 と幽霊は泣く。有名な僧、霊能者に頼んでも駄目。インチキそうなものから大仰なものまで、ありとあらゆる加持祈禱の類を試したが、ちっとも成仏しないのだという。
 何か未練があるのか、心当たりはないのかと尋ねるが、大往生の103歳だったのだという。眼前の幽霊は、どうやら自身の「一番麗しかった頃」の姿であるらしく、とても百年以上生きたようには見えぬのだが。
「では、好きだったものは? 日々の楽しみだとか」
しばし考えたのち、「お風呂……お風呂に入りたい。しゅわしゅわの入浴剤を入れて……」
 すぐに湯を沸かし、入浴剤を三個も入れた。咽かえるような人工的な柚子の香りの中、湯舟に浸かった幽霊は「ああ、極楽極楽、じょんのびじょんのび」と言うと、みるみるうちに老人の顔になり、穏やかそうに揮発していった。

発泡性幽霊/立花腑楽

 点滴されると、冷たい薬剤がすっと体内に侵入してくるのがわかる。
 幽霊に取り憑かれるのも、その感覚に似ている。
 幽霊は液状なんだと私は思っている。濁ってたり澄んでいたり、さらさらだったりとろとろだったり。
 とりわけ面白いのは、発泡性の幽霊に取り憑かれたときだ。
 幽霊は私の魂にしがみつく。ぷちぷちと弾ける気泡が、冷たく繊細な棘みたいに私を苛む。
 それは爽快感を伴う不思議な痛みで、ずっと飼い殺しにしてきた古い記憶の扉をノックする。
 ただ、幽霊の発泡はそんなに長くは保たない。
 しゅわしゅわと気が抜けたあとでは、他の凡庸な幽霊と何ら変わるところはない。
 一抹の名残惜しさを覚えながらも、私は気の抜けた幽霊を冷淡に放逐する。
 まるで断末魔のように、あるいは品のない噫のように、最後の一粒の気泡がぷちっと弾ける。

2021年4月4日日曜日

理義字/五十嵐彪太

  漢字を覚え始めたばかりの子が画用紙に林の字をさらに並べて大きく書いた。
林林
「理義字をさらに重ねたらリギリギジだな」と言う。
「リギリギジ?」と子が言う。
 するとグラリと視界が揺れ、我々は鬱蒼とした林の中にいるのだった。変わったことと言えば、きっちり同じ形の樹木が二本ずつ並んで立っていることだった。
 子が「火火火火」と書く。
「火は上下に重ねるんだ」
「炎」と改めると、更に「燚」に書き替えた。
「リギリギジ!」
 二本組の樹木が次々と綺麗に燃え上がっていく。しまった、森林火災だ。
 淼の字はリギリギジとは認められなかったようだ。単なる理義字か品字様だということだろう。苦し紛れに雨を幾つ並べて書くが、何も起きない。
 ついに画用紙が燃え始めたが、子は磊磊落落、ケタケタ笑っている。

理義字/立花腑楽

 「FF」と表記する。これで漢字一文字だ。
 読み方は知らないが、有限の終わり、転じて世界の終わりを示す一文字だ。
 世界はいずれ「FF」の日を迎え、そっと終わるのだろう。
 誰も彼もそんなことを考えながら、日々をぼんやりと過ごしている。
「本当は内緒なんだけどね、そのずっと先もあるんだよ」
 彼女はそう笑いながら、聖典に記載された「FF」の下に、もう一つ「FF」を書き足した。
 2×2にならんだF。それをとんとんと叩く指。世界がデジタル震でジジジと揺らぐ。
「ぼくらはまだまだ進化するよ。8の世界から16の世界へと」